湯の山温泉(三重県)

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神経痛、リウマチ、筋肉痛、痛風、動脈硬化、慢性皮膚病、婦人病

<所在地>三重県三重郡菰野町
<交通>近鉄湯の山温泉駅下車
<泉質>放射能泉(ラジウム泉)

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湯の山温泉(菰野町)は開湯から1300年あまり、718(養老2)年、仏僧の浄薫が発見したと伝えられ、別名「鹿の湯」とも呼ばれています。傷ついた鹿が温泉で傷を癒やしたという開湯伝説が伝えられています。

むか~しむかしのこと。ひとりの心やさしい木こりが山で一頭の傷ついた鹿を見つけました。後をつけていくと、鹿は谷川に傷ついた足をつけ、なにやら気持ちよさそうにしています。

その時、木陰に狩人の姿が。木こりは大声をあげ、この鹿を逃がしてやりました。それから数日後、木こりのもとにいつぞやの鹿が訪ねてきて「危ないところをありがとうございました。

あのくぼみには、ケガに効くお湯が湧き出ているのですよ」と告げました。その話はまたたく間に遠い村々や町にまで広がったとか・・・・。

湯元は湯の山温泉の泉源であり、この湯元には元正天皇の養老年中、夢の告げによって湯を発見されたと言い伝えが有り浄薫上人の碑もあります。

左手に小堂があって薬師如来を安置して有り、湯元の守護仏として祀られています。江戸期の旧記による平松山温泉寺(薬師院)の本尊は、この薬師如来とい われています。

貞享年中(1686)湯の山の人壺屋権七が菰野藩主土方雄豊に願い出て、廃泉を復興しました。

湯元の東側に三本杉跡がありますが、ここは慶長 の頃、美濃の人が、重い怪我がこの湯で治ったため、そのしるしに三本の杉を植えたと伝わっています。

養老年間(717~723)の温泉発見からつづく湯の山温泉は栄枯盛哀を繰り返してきました。

信長の伊勢進攻で三岳寺が焼き討ちにあって衰退、江戸時代に温泉湯宿として再興され、明治十年 西南戦争のおりに負傷兵の臨時療養所に充てられて活気を取り戻しました。

昭和二十五年には愛知国体の登山競技開催地として全国に知れわたり、昭和三十四年の御在所ロープウエイ開通で爆発的な人気を集めました。

その間、多くの文豪や歌人、動植物研究家が訪れた湯の山温泉は、都市近郊にありながら豊な自然が残る温泉地であり、関西の奥座敷とも呼ばれていました。

御在所岳へ登れば琵琶湖、伊勢湾を一望し、天気の良い日には遥か富士山をも遠望でき、温泉街には三岳寺や蒼滝、大石といった見所を訪ね歩く遊歩道があります。

江戸時代、上方の大店のひとり娘の葵と使用人の佐吉は、結ばれぬ恋を思いつめ湯の山に。蒼滝にふたりで身を投げようとしたその時、ひとりの僧兵が現れ「温泉にでもつかれば、気持ちも変わるかも知れんぞ」と励ましたそうです。

その言葉に気を取り直したふたりが湯に入ると、なぜか思い詰めていた気持ちが、ほんのりと解けていくのが分かったそうです。

あくる朝、僧兵に礼をと三岳寺を訪れたところ姿がありませんでした。せめて感謝の気持ちを伝えようとふたりは鶴を折り、寺へ奉納すると、折鶴は連なってひらひらと舞い上がり、飛びたって行ったそうです。

この不思議な出来事に、明るい望みが生まれ、ふたりは上方に帰る決心をしたそうです。それから数年後、幸せになったふたりは三岳寺を訪ね、住職にあの僧兵のことを話すと、もう何十年も僧兵はいないとのこと。

ふたりを救った僧兵は仏様の仮のお姿だったのでしょうか・・・・。今でも三岳寺では、永遠の愛と、幸せに結ばれることを願い、折鶴を奉納する恋人たちの姿が絶えないそうです。

湯の山の三岳寺境内内にある句碑は、芭蕉が蓑(みの)を着て腰を折り、うずくまるような形をした名石です。

文月や六日も常の夜には似す壬子秋義観代この句碑は、芭蕉が「おくのほそ道」の旅で、出羽の酒田から、出羽と越後の国境、鼠が関を越えて、直江津を訪れました。

直江津の古川市左衛門方へ一晩泊待った時に、読んだもので、元禄元年(1689)七月六日のことといわれています。

この句の意味は「明日は年に一度、織女と牽牛が天の川で逢うのであろうと思うと、六日の今宵はいつもの夜とは違った気分がするものだ」というもので長い旅の疲れに暑さも加わり、憂愁の芭蕉に、雨のあと直江津の夜空は格別美しかったのだろうと思われます。

句碑に刻まれている「壬子秋 義観代」の六文字は、建立の年代と建てた人を現していますが、なぜ湯の山の三岳寺境内に建てられているのでしょうか・・・。

菰野財産区が所有している菰野藩寺社奉行宛の願い書には、嘉永二年(1849)西菰野村庄屋矢田伝兵衛ほか三名の連署で、

「この度湯の山三岳寺恵孝入 寂後無住にて垂坂村観音寺と兼住のこと桑名仏眼院弟子覚漸房義観を後任に願い出て候、願の通りおおせつけ下され候」とあって、

これは先の住職恵孝が亡く なった。その後任に桑名魚町の天台宗仏眼院から義観を三岳寺へ派遣されたもので、それから三年後の嘉永五年(1852)「壬子秋」に義観が建立したも のと考えられます。

三岳寺境内の三本杉は景勝の地で、古杉の根方に俳人、歌人が集まり月見の宴や句会が盛大に催されていたようです。

その頃、菰野には宇佐美精得、太田順庵、村井長央ら世間に名の聞こえた文人が活躍し、三岳寺はこうした歌人、俳人の集まる憩いの場所だったようです。

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