庶民の昔からの湯治から生まれた貸間旅館

「鉄輪温泉」は湯治色が強くて、独特の雰囲気を感じる温泉街です。この地には独特の貸間旅館と云うシステムがあります。食事なしの素泊まりが基本。自炊や外食しながら滞在するのが基本です。このシステムは湯治で長期滞在するのに向いている。

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昔からのやり方なのだと思います。昔の湯治客はこうした宿で部屋を借り、各自で共同浴場に通っていたのでしょうね。

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鉄輪(かんなわ)銀座通りには、いまも湯治旅館の面影を残す、貸間と呼ばれる湯治旅館が並んでいます。現在もある貸間旅館料金は一泊3000円くらい。古びた商店やお寺などもあり、なかなかいい雰囲気で、この温泉街を歩いているだけで、ちょっとした日本の原風景を味わえます。

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明治初期の鉄輪温泉は、農業と兼業する旅籠が34軒ほど。年間3000人位の湯治客がくる、ひなびた湯治場だったとか。温泉地として発展してゆくのは、地獄めぐり観光がうまれた
明治末期から大正時代にかけてのようです。

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1970年代半ばまで、共同温泉の「熱の湯」と「洗濯場」の源泉として利用されていた源泉跡です。鉄輪温泉には、こんな温泉遺構といえる場所が点在しています。貸間や旅館の全盛期は、97軒もあったという昭和の高度経済成長期のころ。その後減少が始まり、バブル崩壊後には半数に。それでも鉄輪温泉は、いまも湯治旅館の面影を残す貸間が営業している貴重な温泉場です。

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宿につくと、最初に「足などが悪くありませんか」と聞かれ部屋絵案内される。廊下や急な階段が入り組んでいた。部屋は、非常に古い造りで部屋の独立性はほとんどない。宿というより、昔の安い下宿部屋のような感じです。

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この宿の特徴は共同自炊場に温泉の噴気を利用した「地獄蒸し」という釜が1階と2階にたくさんあることで、これを使うとご飯も炊けるしさまざまな料理ができます。近くのスーパーで海老とじゃがいもと卵を買ってきて、夕食はこれらを蒸して食べます。

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ざるに並べてふたをして待つだけなのですごく簡単。調理器具や食器、調味料類もは借ります。長期滞在するなら持っていったほうがいいと思います。地獄釜で蒸したいもや海老などは、絶品料理に変わります。

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旅館には表の玄関のほかに裏口もあり、構造が複雑です。1階には「地獄釜」の炊事場、近くには洗濯機がおいてあり、宿泊客は自由に使うことができます。炊事場や洗濯機置場周辺は生活感にあふれ、他人の家の裏口にきたみたいな雰囲気です。宿の客もみんな何かと親切で、次第に旅館に泊まっているという意識は薄れ、知り合いの家にきた気分になってきます。

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すべてが貧乏くさく、まさにボロ宿なのですが、何となく自分の家のようにくつろいでしまいます。なるべくなら今のままの雑然とした雰囲気を壊さないでほしい。古い時代の雰囲気を残し、その価値を大切にしてほしいです。昔の湯治客はこうした宿で部屋を借り、各自で共同浴場に通っていたのでしょうね。

鉄輪温泉の歴史の景観

蒸し湯(鉄輪温泉地区共同浴場)

建治2年(1276)頃に、時宗の開祖である一遍上人が別府に立ち寄り、湯滝山松寿寺(現在の温泉山永福寺)を開くとともに、鉄輪の地獄を鎮めて湯治場とした際に開かれた温泉の一つという伝承が残っている。

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石室の中に地熱や温泉熱による高温の蒸気を引き込み、床にセキショウを敷いて横たえ、発汗作用を促す一種のサウナであり、温泉治療の場として古くから利用されてきた。昭和10年(1935)に朝日村と別府市の合併に伴い市営化された。利用され続けた中で改修を繰り返し、平成18年(2006)に建物の老朽化等に伴い現在の位置に建て替えられたものの、蒸風呂の共同浴場としての機能は健在で、現在も稼働し続けている。

渋の湯(鉄輪温泉地区共同浴場)

明治28年(1895)に、それまであった渋の湯(下渋の湯)の側に新築され、対比する形で「上渋の湯」と呼ばれ、市営温泉として開設された。

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その後、本来の渋の湯が区営の「元湯」と呼ばれるようになった頃に「渋の湯」の呼称が定着し、現在に至る。現在の外装は平成10年(1998)に改築されたもので、それ以前から改修を受けているものの、地元住民や観光客に共同浴場として利用され続けている。

地獄原温泉(鉄輪温泉地区共同浴場)

明治時代にはすでに共同浴場として開設され、昭和初期まで男女混浴だった。昭和22年(1947)に受益地域の有志が世話人となって、組合員を中心に利用される共同浴場として改築され、砂湯も造られたが、現在は使用されていない。

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その後、昭和30年(1955)以降、維持管理や給湯先の変更などが相次ぎ、施設内の改修等も行われているものの、地元の共同浴場としての機能を保ち続けている。

上人の湯(鉄輪温泉地区共同浴場)

戦前にはすでに開設され、組合員のみ利用できる共同浴場として現在地にあり続けている。

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外装は何度か改築を受けて変化しているものの、共同浴場として現在も稼働している。利用者の大半が徒歩圏内の地元住民である。

筋湯(鉄輪温泉地区共同浴場)

昭和29年(1954)にはすでに共同浴場として存在していた。かつて隣接していた旅館の経営者によって開設され、周辺に多くの貸間旅館が建っていた。

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温泉の効能の高さを売りにしており、「身体の筋が良くなるように」という意味合いを込めて命名されたほどである。貸間旅館を利用した鉄輪温泉地区の湯治習俗を現在に伝える。

谷の湯(鉄輪温泉地区共同浴場)

弘化2年(1845)に作成された『鶴見七湯廼記』にも記述がある古くからの共同浴場である。

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浴室は建物の1階部分に設けられ、2階部分は北中地区の公民館として利用されている。共同浴場の建物2階部分を公民館として利用するのは別府市内では多く見られ、別府の独自性を示すとともに、地元住民の日常生活を語る上で欠かせない。

熱の湯(鉄輪温泉地区共同浴場)

建治2年(1276)頃に、時宗の開祖である一遍上人が別府に立ち寄り、鉄輪の地獄を鎮めて湯治場とした際に開かれた温泉の一つという伝承が残っている。

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身体の熱を除去する効用があることから命名されたと伝えられ、地元住民のみならず遠方からも入湯客が訪れる。外装はその都度改修が行われており、現在では建物の2階部分が周辺地区の公民館として利用されている。共同浴場の建物2階部分を公民館として利用するのは別府市内では多く見られ、別府の独自性を示すとともに、地元住民の日常生活を語る上で欠かせない。

冨士屋旅館(建物)(鉄輪温泉地区)

旅館としては明治27年(1894)に創業し、現在はギャラリーとしても利用されている。平成13年(2001)に屋・前門・石垣・石段が国登録有形文化財に指定されており、平成16年(2004)に改修を受けて現在にいたる。

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主屋は T 字形に近い平面の寄棟造り・桟瓦葺木造2階建で、正面玄関は軒先に反りがある入母屋造り・桟瓦葺平屋建て式である。前門は観音開き戸を持つ桟瓦葺の薬医門であり、石段は亀甲積に近い丁寧な石積である。石垣は金槌で叩く小さい凹凸の仕上げ(ビチャン仕上げ)を施した亀甲積に近い石積と、自然石の乱れ積の2種類の工法で積まれている。戦後は国の傷痍軍人収容所に指定され、また現在に至るまで建物の形状がほとんど変化していない。湯治場としての鉄輪温泉地区の歴史を語る上で、重要な位置を占める。

誠天閣(建物)(鉄輪温泉地区)

江戸時代から旅館として存在していたと伝えられており、現在も開業当時の形状を保っている。

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昭和30年(1955)頃までは殿様が使用していたという逸話から御座という名前で営業しており、戦後は国から傷痍軍人の収容場所に指定された。湯治場としての鉄輪温泉地区の歴史を語る上で、重要な位置を占める。

温泉山永福寺(鉄輪温泉地区)

大分県内唯一の時宗寺院で、一遍上人が別府を訪れた際に寄進を受けた湯滝山松寿寺が基となり、数度に渡る廃絶の後、明治24年(1891)に尾道の永福寺の寺号を借り受け、現在の温泉山永福寺となった。

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江戸時代には、松寿庵(松寿寺)を存続させるため、石風呂(蒸し湯)の入湯料を値上げして、一部を寺の燈明料として差し上げるようにするなど、古くから当地の温泉に関わる面が大きい。現在でも地元住民の有志による鉄輪温泉湯浴み祭」の舞台となっており、鉄輪温泉地区における歴史的背景、及び生活・生業を語る上で欠かせない。

温泉神社(鉄輪温泉地区)

明治維新までは湯滝山松寿寺(現在の温泉山永福寺)の中で熊野社も祀られていたが、神仏分離令に影響された廃仏毀釈運動によって湯滝山松寿寺が廃寺になったのに伴い、現在の湯乃徳稲荷の場所に移され、さらに昭和43年(1968)現在の場所に移された。

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温泉山永福寺と共に、地元住民の有志による「鉄輪温泉湯浴み祭」の舞台となっており、鉄輪温泉地区における生活・生業を語る上で重要な位置を占める。

渋の湯滝湯跡(温泉遺構)(鉄輪温泉地区)

渋の湯と温泉山永福寺の間に所在する。自然石による乱れ積の石垣の上に樋を設け、そこから滝のように流れ落ちる温泉水を浴びる為の設備である。

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「原風景形成期間」は利用客で賑わっていたものの、戦後ほとんど使われなくなり、現在は廃止されている。石垣の両脇にはそれぞれ日輪と三日月を象った堀込みがあり、中央には幅1.04m×高さ0.88m の板石に磨崖像が2体浮き彫りされている。温泉利用の歴史的背景を示す貴重な遺構であり、また別府における生活・生業と独自性を語る上で欠かせない。

洗濯場跡(温泉遺構)(鉄輪温泉地区)

弘化2年(1845)に作成された『鶴見七湯廼記』に「下熱の湯」として記載され、戦前まで温泉施設として利用されていたが、湯温が低く泉質が洗濯に適していたため、洗濯場として活用されるようになった。

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昭和50年代以降は、電気洗濯機の普及や湯が枯渇したことにより閉鎖されたものの、近年外装が作られた。温泉地としての歴史的背景や生活を語る上で、一翼を担っている。

蒸し湯跡(温泉遺構)(鉄輪温泉地区)

詳細は蒸し湯の項を参照。平成18年まで蒸し湯と利用されていた地点に、その当時用いられた石材を利用して石室を復元している。

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現在の蒸し湯は温泉旅館から蒸気を引いているが、旧地点では当地の地熱をそのまま利用していた。鉄輪温泉地区における温泉利用からみた歴史的背景、並びに生活・生業を語る上で一翼を担っている。

熱の湯湯元跡(温泉遺構)(鉄輪温泉地区)

無色透明無味無臭の温泉水が湧出していたため、昭和4年(1929)に水道が敷設されるまでは地元の飲料水源として利用され、戦後も炭酸健康飲料水泉として使用されていた。

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しかし、北側にある北鉄輪地区において、田畑が住宅化するなど開発が進行すると、水脈の変化により温泉が枯渇してしまい、湯元としての機能は停止している。近年では、遺構としての価値を見出されて修景されるなど、温泉地における歴史的背景や生活・生業面を語る上で重要な役割を担っている。

元湯跡石碑(鉄輪温泉地区)

建治2年(1276)頃に、時宗の開祖である一遍上人が別府に立ち寄り、鉄輪の地獄を鎮めて湯治場とした際に開かれた温泉の一つという伝承が残っており、上渋の湯(現在の渋の湯)が建てられて「下渋の湯」と呼ばれるまでは、本来の渋の湯であった。

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戦後になって、下渋の湯を取り壊す計画が持ち上がった際、住民の努力により区営の「元湯」となったものの、その後維持管理が難しくなり、平成18年(2006)に廃止され、当地に石碑が建てられている。温泉地としての鉄輪温泉地区における歴史的背景、及び生活・生業面を考える上で重要な地点を示すものとして一定の役割を果たす。

永福寺再興之碑(鉄輪温泉地区)

詳細については、温泉山永福寺の項を参照。明治24年(1891)に尾道の永福寺から寺号を借り受けて温泉山永福寺となった後、大正9年(1920)に地元有志や信者などにより建立された。

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高さ約2m の石碑で、廃寺となった湯滝山松寿寺から再興したことを象徴するものとして、温泉山永福寺と共に鉄輪温泉地区における歴史的背景、及び生活・生業を語る上で一翼を担っている。

冨士屋旅館前の石畳(鉄輪温泉地区)

冨士屋旅館の東側を通る約50m 弱の坂道に敷かれている。自然石を敷いたものである。

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鉄輪温泉地区温泉湯けむり重点景観計画の景観形成の基本的方針の中に、「下駄の音が似合う湯治場」を目指すことが含まれており、今後の指標となりうる点からも重要な役割を果たすと考えられる。なお、別府石とは、別府が温泉観光地として発展した頃に、当地で別荘を持つことが一つのステータスとされていた時代に生まれたと考えられる通称である。特定の産出地及び石材に対するものではなく、地面を掘ると石が多く出てきて、石垣などに利用した際、石材名を言うより響きがいいために使われた。別府の土地柄を象徴したものと言える。

鬼石坊主地獄(鉄輪温泉地区)

地名に由来して名称を付けられた。池の中から熱泥が沸き起こる様子を見ることができる。

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一時期閉鎖していたが、平成14年(2002)に約40年ぶりにリニューアルオープンした。「地獄めぐり」の一環として観光の目玉の一つとなっており、鉄輪温泉地区における観光習俗を語る上で一翼を担っている。

鬼山地獄(鉄輪温泉地区)

地名に由来して名称を付けられた。大正12年(1923)に日本で初めて温泉熱を利用してワニの飼育を始め、「ワニ地獄」の別名を持つ。

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現在約100頭のワニを飼育し、「地獄めぐり」の一環として観光の目玉の一つとなっており、鉄輪温泉地区における観光習俗を語る上で一翼を担っている。

かまど地獄(鉄輪温泉地区)

氏神である竈門八幡宮に、毎年春と秋の2回、地獄の噴気で炊いた飯米を供える風習に由来して名称を付けられた。

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昭和11年(1936)に開園し、温度や成分の沈殿状態で池の色が変化する特徴がある。かつて地獄釜も使われていたが、現在は使用されていない。「地獄めぐり」の一環として観光の目玉の一つとなっており、鉄輪温泉地区における観光習俗を語る上で一翼を担っている。

山地獄(鉄輪温泉地区)

噴気に伴い地表に噴出する粘土が累積した結果山の形になり、その山のいたるところから噴気が上がっている様子に由来して名称を付けられた。

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温泉熱を利用して、世界各国の珍しい動物や植物を飼育している。「地獄めぐり」の一環として観光の目玉の一つとなっており、鉄輪温泉地区における観光習俗を語る上で一翼を担っている。

海地獄(鉄輪温泉地区)

約1,200年前の鶴見岳の爆発によって作られたという伝承が残っている。明治時代に入って、千寿吉彦が温泉付き別荘地にするため土地を購入したものの、明治43年(1910)に管理者が覗き見していた湯治客から見物料を徴収したのを機に、見世物としての価値があることから観光施設化した。

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他の地獄の所有者もそれに続いて「地獄めぐり」などの目玉を作るなど、別府の観光総合産業を発展させることになる。池に浮遊する微細なカオリナイトが太陽光を散乱させた結果、池の本来の色と重なり鮮やかな青緑色を呈しいる。平成21年(2009)7月に「別府の地獄」の一つとして、池の部分が国の名勝指定を受けている。鉄輪温泉地区における観光習俗を語る上で、自然・歴史・生活・生業の各側面を持ち合わせる重要な位置を占める。

白池地獄(鉄輪温泉地区)

昭和6年(1931)にボーリングによる掘削で湧き上がった温泉を、観光施設の地獄として創業し、「地獄めぐり」の一環として別府の観光に資している。泉質は含ホウ酸食塩泉で、成分としてケイ酸、塩化ナトリウム、重炭酸カルシウムを含んでいる。

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温泉水の噴出時は透明であるが、池に落ちた際の温度と圧力の低下により、青白く変化して見える。園内では温泉熱を利用して熱帯魚を飼育しているほか、庭園を形成する際に国東塔や向原石幢が持ち込まれ、現在大分県指定有形文化財となっている。池の部分については、平成21年(2009)7月に「別府の地獄」の一つとして国の名勝指定を受けている。鉄輪温泉地区における観光習俗を語る上で、主要な位置を占める。

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